【雑記】他人からの印象とその正体。

雑記

人間と数回関わると、自分のイメージ、印象を言われることがある。

私に関して言えば、パッと思いついたものはこちら。

「まじめそう」、「本をよく読んでいそう、本を読んでいる人の文章」、「嘘をつけなさそう」。

なるほど。言いたいことはわかる。

それが自分に近いかちょっと考えてみようと思う。

「まじめ」の正体は、恐怖とリスク回避


私もまじめか不まじめかと聞かれたらまじめと答えるだろう。
関わっている人に「まじめだね」と行動を踏まえて言われるしそうだろう。関わった人は私をよくそう表す。きっとそう見えるのだろう。

ただ、私は私のイメージするまじめではないので、自己評価ではまじめではない。

夏休みの宿題を最終日にやる人間、というだけで不まじめだろう。

そうは言っても、不まじめそうという印象を面と向かっていう人は少ないと思うので、無難な印象だ。そして、平たく言えば芋っぽい、素朴そうな見た目から連想されているだろう。見た目も印象の一部として侮れない。たまったもんじゃない!と思うこともあるが。

「本を読んでいそう」は大きな誤解!


なるほど・・・まじめの延長戦だろうか。しかし、ゾウさんの大きさで言いたい。

んなわけあるか!

残念!ほぼ読んでません!
読んでいたと言えるのは小学校のときだ。熱心に読んでいたのは児童文庫で、一般の文学想像しているであろう方々の期待には沿っていないだろう。中高では、ほとんど図書室に行ってない。今も読んでいると言えるのは漫画くらい。新聞は気が向いたら読むくらいで、基本は向かないので読まない。あとは、残念ながら記憶はないが幼少期の絵本だろうか・・・?記憶にない絵本のことを本好きとしてカウントしていいのかは怪しいが。

強いて言えば、大学生になって数ヶ月に一度ほど課題に関係なく本を借りる。興味のあるジャンルを読んでみたいと思い借りる。悲しいかな、3ページも読むことなく返却する。どんなに分厚い本で苦労して持ち帰っても同じだ。

私は考える。はて、私の文章力は一体どこから来たのだろうか。

会って数回で言い当てられた「嘘がつけない」の隠された理由


なんというか、数回関わってこれがでてくるのは人間観察が上手い気がする。
自分で言うのも憚られるが、確かにつけない。これまた当てられたが、本番とかで真っ白になるタイプでもある。人前や想定外の質問はアタマが真っ白になる。一方で、「嘘が上手そう」と言われても参ってしまうので思っても言われないだろう。

このように、他者は私に対して、様々な評価を下すだろう。そして言うか言わないかはさておき私も下している。

バラバラに見える印象を支配するのは、たった一つの性格

当たらずとも遠からず。おおよそ真面目そうな顔から言っているのだろうと思わなくもない印象をいただくが、まあ、大きくは外れない。当たり障りのないことを言えばそのような印象だろうと思うこともある。

私の場合は、多くの人がいう印象は一つの性格に起因しているだろう。

極度の心配性。

これで9割説明がつくだろう。石橋はたたきにたたいてヒビを入れたうえで渡らないか、しびれを切らした誰かが腕をひっぱって渡らせるくらいしかない。自ら渡るならば、不安を超えるほどの動機がなければまずない。

むなしいかな、たいていの動機はお金である。

「まじめそう」、「本をよく読んでいそう、本を読んでいる人の文章」、「嘘をつけなそう」などなど言われる印象は、心配性で説明がつきそうだ。

あれこれ考えて不安になった結果、やりたいわけじゃないけどしっかり取り組むから「まじめそう」に見える。やらなかった場合のことを考えすぎてやるしかなくなっている。

「まじめそう」の延長に「本をよく読んでいそう」がきているかもしれない。「本をよく読んでいそう」は心配性から直線でつなげそうにない。

この言葉の使い方はあっているのか、誤字脱字はないか、フランクな書き方じゃないか気にしているところから考えに考えまくった文章を読んで「本を読んでいる人の文章」という印象。読んでない。

嘘をついて、どこかで発覚して大事にならないか心配になったり、ツメが甘くどこかでボロがでそうになるんじゃないかと心配になって嘘が言えないところからくる「嘘をつけなそう」という印象。「自分には小さい嘘でも信じやすい雰囲気がでいて鵜呑みにされるんじゃないか」って心配してしまうので向いていない。



ここまで読んでくださった人の中には

コイツ考えすぎだろ

と思った人がいるかもしれない。はい、私もそう思います。そして、言われたこともある。

書いていくうちにいくつものエピソードが書かずとも思い浮かぶ。心配性にもほどほどにした方がいいのはわかる。わかっているが癖になっている。憂いて一歩も踏み出せないより、考えずに一歩踏み出した方がいいのはわかっている。わかってはいる。

話を元に戻すと、よく言われる印象は極度の心配性の派生、延長線にある、というわけだ。他人事であれだが、生きづらそう。マア、今はともに生きていくしかない。

いつか、極度の心配性から解放される日は来るのだろうか。はたまた、伴走者となるのか。

では、また。

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